2001年07月24日
◆歴史
今日は留学に行くという友人などと昼食会。
そのなか、歴史について熱く語ってしまいました。修論漬けはよろしくないです。要反省ですが、一応、そこで考えたことを書いてみましょう。
・学問としての歴史
なぜ歴史を知りたがるのか?・・・個々人によってそれは違うでしょう。
例えば私の場合は、失敗の中に教訓を探す作業です。
世界環境の問題点、意志決定過程の問題点などなどです。とても簡単に言えば「何で英米と戦争をするという無茶をしたのか」ということについての原因と結果を、事実ベースで、冷めた目で見ている訳です。
歴史にいわゆる真理は無いですが、環境や選択肢、その妥当性と言った「事実」を探る事には意味があるでしょう。そして、そうだからこそ是々非々の議論から始めるのではなく、価値中立的なところから組み上げる、非常に冷めた姿勢から始まります。そして、その史実、および原因-結果の妥当性について議論を行い、普遍化を目指していく。これが学問としての歴史の真っ当な姿です。
・国として教えるべき歴史とはどういうもか。
さて、ここで教科書の問題になります。
個人的には、やはり歴史の持つ重要性は捨て難いと考えてます。
少なくともも、原因と結果の連続、自己のルーツ、他者理解など、思考訓練には大きな役割があるからです。
しかし、国家の紐帯としての役割を歴史に担わせるという立場には若干の反感を覚えざるを得ません。
「新しい教科書」の近代史の説明にはさほど違和感を感じない自分ですが、それでも中学生に「国民の物語」を強く意識させようとする意図には同意できません。
同様に、正直言って、中国や韓国が取る歴史への態度には共感を覚えません。
まぁ、理解をする必要はあるでしょう。他国から抑圧され、それを跳ね返す過程で彼らはナショナリズムを発展させ、歴史を国家の紐帯とした(せざるを得なかった?)一端に、手段的にも内容的にも日本が大いに関わったのは事実です。理解する義務というか、寛容さは持ち合わせるべきでしょう。共感とか反省という表現は馴染みませんけど。
やはり宗教と同様、国家と歴史を分離する必要があるんでしょうか。あくまで学問としての歴史は、初めに個人に属し、妥当なものが次第に普遍化されていくというプロセスから見ても、国がこれを権威付けする、というものには馴染まない部分もあります。
しかし、知的訓練のためにも、理解を深めるためにも、歴史は大きな役割を果たします。また、排他的でない緩やかな紐帯としての役割まで歴史から排除させる必要がそれほどあるのかとも思ってます。宗教は教育から分離すべきでも、倫理を教育で教える必要があるのと、感覚的には同じ関係です。
両方の中間を取ったのが、今の検定制度なんでしょうが、国が歴史に深く関与せざるを得ないという問題は残ったままです。
とにかく、自分の考えを纏めると、
①教訓と教養のため、歴史を専攻していること
②学問としての歴史は、個人に属する部分が大きいこと
③国が歴史という物語を作り上げることには違和感がありながらも、それでも教育から歴史を無くすのは、どうかなぁと考えていること
といった所でしょうか。
・・・う~ん、やっぱり教科書問題には相変わらず歯切れが悪いなぁ・・・
